クリミア戦争従軍看護婦
女性の制服が脚光を浴びた始まりは、クリミア戦争(1854~56年)の 従軍看護婦と言われている。ちなみに看護婦を「白衣の天使」と呼ぶのは、戦争で傷つき看病された兵士達が、赤十字のマークの 入った白衣で、かいがいしく看病する看護婦に感謝を込めて呼んだことからとされている。
日本赤十字社救護員看護衣
1937年、日中戦争において日本赤十字社は戦争救護員200名を 戦地に派遣したが、これが日本女性が組織的に海外で働いた最初とされている。
戦後のスモック
戦後、物資が不足し、繊維製品は高価だった。当時の女性の給料では外出着を多く持てず、職場に着ていく服がないので 勤めることをためらう女性もいた。そこで、企業の福利厚生充実の一環として、中に着るものを問わず、比較的安価で簡便な スモックが採用され、しばらくは職場ユニフォームの過半を占めるほどになった。
バス車掌
東京市街自動車株式会社と東京乗合自動車の女性車掌の採用が、女性職業服の様相化を進展するきっかけになった。 女性車掌の服はモダンさで評判となり、当時の憧れの職業となった。
大阪万博コンパニオン
1970年、日本で初めて開かれた大阪万博で各パビリオンが華を競ったコンパニオンのユニフォームが評判となった。 C.I.表現に格好のアイテムだったこともあり、その後のオフィスユニフォームのデザインが飛躍的に向上し、また、ハイグレード化が 進展するきっかけとなった。
デザイナーズ制服
1980年代のDCブームで、著名デザイナーを大口ユーザーに薦めたり、カタログ商品のデザインに起用するケースが相次ぎトレンドとなった。
JAL客室乗務員
1977~87年、ニット素材のワンピースとセーターの組み合わせは、新鮮なデザインで大変評判になり、レディースユニフォームにも 大きな影響を与えた。デザインは森英恵で、セーターは動いてもずり上がらないボディスーツにするなど、業務利便性もよく考えられたものだった。
ANA客室乗務員
JALと人気を二分するANAのユニフォームは芦田淳デザインの端正なスーツで、格調高く気品があった。日本がバブル景気に沸いていた頃に登場した このジャンルはパンツ、ベスト、替えブラウスなどコーディネイトバリエーションが充実し、ユニフォームメーカーの看板商品としてカタログの 表紙を飾った。
カタログモデル
ユニフォームカタログには、憧れを醸し出すため、庶民とかけ離れたスタイルの外国人モデルを使うのが当たり前だった時代が長く続いていた。 21世紀に入り、日本人のファッション雑誌専属モデルやタレントを起用するのがブームになり、モデル着用商品がヒット商品になるブームが起きた。